本名ジョン・ジェームズ・ランボー。
1947年7月6日アリゾナ州ボーウィに、ネイティブ・アメリカンの父と
ドイツ系アメリカ人の母の間に生まれた。
1965年にレンジフォード高校を卒業し、1966年1月2日にアメリカ陸軍に入隊した(このとき18歳)。
同じ年の9月に南ベトナムに配属されるも、翌年グリーンベレーの特殊訓練を受けるべく帰国し
ノースカロライナ州へ赴く
(これは彼の比類なき戦闘能力をサミュエル・トラウトマン大佐が見抜き、その推薦から異例の入隊となった)。
1969年に南ベトナムに再配属されたが、1971年中国とベトナムの国境で
北ベトナムの捕虜となった。その際他のアメリカ軍捕虜たちと共に
過酷な拷問を繰り返し受け、これが後に彼のトラウマとなる。
1972年5月に何とか脱出し、1974年9月17日アメリカ陸軍を
名誉除隊(最終階級は中尉)。帰国した際、多くのアメリカ国民が
帰還兵を憎んでいることを知り、反戦的なヒッピーたちが
帰還兵にゴミを投げつけ、「赤ん坊殺しめ!」と罵っている様子を見て、
屈辱と困惑を覚えた。ベトナムでの体験と帰国後の体験は、
極度の心的外傷後ストレス障害を引き起こし、彼の心を蝕んだ。
それが、彼に社会への激しい憎しみを生じさせた。
その後民間人としての生活になじめず、アメリカ各地を放浪。
1982年12月、グリーン・ベレー時代の戦友デルモア・バリーに会うために
オレゴン州ホープを訪れた。ホープで食事と臨時の仕事を見つけようとしたが
小汚い浮浪者を快く思わない保安官ウィル・ティーズルに
街から出るよう促された。保安官の横暴に反発し、街を出なかったために
彼は逮捕され、”浮浪罪”で起訴される。この時取調べの最中に
ひどい嫌がらせを受け、これが北ベトナムでの拷問をフラッシュバックさせ、
彼の精神を戦時の状態へ退行させた。保安官たちを蹴散らし、山へと篭る。
州兵たちが山を囲む中、彼の元指揮官だったトラウトマン大佐も到着。
トラウトマン大佐の説得は通じず、大佐は山中で彼を捕らえることが
困難であるとし、一旦ランボーを逃がすことを提案。
しかし、ティーズルたちはトラウトマンの提案を拒絶し
結果としてホープ市街はランボーによって大混乱に陥った。
ランボーはティーズルを殺すことも可能だったが、止めを刺すまえに
トラウトマンの最後の説得に従い、投降した。
この後ランボーは軍法会議で有罪となり、軍刑務所下での
肉体労働を強いられることになる。その後、服役中の彼の前に
またトラウトマンが現れ、特殊任務につくことを条件に特赦として釈放された。
その特殊任務とは、かつてランボーが脱走したベトナムの捕虜収容所付近に潜入し、
今なお囚われている戦争捕虜の姿を証拠写真として撮影して帰ることであった。
戦闘は一切不用、情報収集だけで、後続部隊が救出するというものだった。
目的地に向ったランボーはパラシュート降下中にアクシデントに見舞われ、
ナイフと弓矢以外の武器は全て失った。
やがてランボーは現地の連絡員コー・バオと出会い
捕虜収容所潜入を果たした。そこで米兵の拷問を目撃し、指令に背いて
米兵を救出して国境近くまで逃げのびたが、
頭上までやってきた米軍のヘリはマードック司令官の命令で
2人を見殺しにして去ってしまう。
実はこの指令は“戦闘中に行方不明となった兵士”を上べだけ調査して
世論を鎮めようとする計画であり、実際に捕虜が現われては困るのだ。
彼とトラウトマンもただこの計画に利用されたにすぎなかったのだ。
敵陣の中に置き去りにされ、東側のゲリラ部隊のポドフスキーに捕えられる。
超人的な忍耐力で拷問に耐え、潜入したコーの助けで逃亡する。
しかし逃走中にコーは銃弾に倒れる。ランボーが初めて心を開き、
アメリカヘ連れていくと約束した美しい少女の死にランボーは怒った。
矢尻に火薬を込めた弓とナイフを武器にゲリラ部隊を一掃。
前線基地に辿りつき、マードック司令官をたたきのめす。
その後、彼はこれまでの戦いで心の傷を癒すべく
タイのバンコクの仏教寺院に住んでいた。そこへまたもトラウトマン大佐が
アメリカ国務省から派遣されてきたグリッグスと共に現れ
アフガン潜入の仕事を持ち出してきたが拒否した。
しかし、トラウトマンがソ連軍に捕らえられたと知るや否や
すぐさまアフガンに向かう。パキスタンのペシャワールで
案内役のゲリラ兵士ムサとおち合い、ゲリラ部隊と協力して
ソ連軍の要塞に潜入する。激しい戦闘の末、トラウトマンを救出するが
ソ連軍のザイセン大佐は最強の師団を投入して
ランボー達の追撃を開始。あわや絶体絶命かと思われた時、
ムサらゲリラ兵士たちが騎馬隊を組織してソ連軍師団の後方から
大挙して現われ、その混乱につけこまれてソ連軍は壊滅した。
ザイセンも彼の乗る戦車と一騎うちとなり、ヘリコプターもろとも
爆発し、ゲリラ兵士たちの勝利となった。
その後の彼は、タイの北部のジャングルで、ボートによる運搬や
毒ヘビ狩りを生業としながら、ひっそりと暮らしていた。
人権侵害が続く隣国のミャンマーでは軍事政権が
少数民族カレン族を虐待し、土地や天然資源を奪取していた。
ある日、ランボーの前にキリスト教系のNGOがやって来て、
ミャンマーへの案内を依頼する。最初は断ったが、
NGOの一人サラ・ミラーの熱心な頼みに心動かされ
彼らをミャンマーに送ることにした。
その数日後、NGOがティント率いるミャンマー軍に捕らえられた事を聞く。
NGO救出のために傭兵部隊が組織され、彼らをミャンマーに案内する。
ガイド役を希望する彼に対し傭兵たちは船の見張りを命ずる。
現地のガイドにカレン族の村へ案内された傭兵たちは
そこで惨殺されたカレン族を目の当りにし、しり込みする。
そしてミャンマー兵による残虐な殺人博打を目撃し
帰途につくことを計画する。そのとき突然彼が現れ敵の兵士たちを射殺、
捕虜たちを救出する。そして逃げ帰ろうとしていた
傭兵のリーダー・ルイスに対し「ムダに生きるか、何かのために死ぬか
お前が決めろ」と諭す。彼は傭兵たちとともに、ミャンマー軍の駐屯地に
ミャンマー軍の兵士を装って潜入する。夜の闇に紛れての救出が始まり、
サラを連れて逃げ、地雷や不発弾を使って追跡者をかく乱する。
しかしNGOを救出した傭兵らは敵に捕まってしまう。
彼らが惨殺されようとしたその時、彼また現れ反撃を開始した。
その後カレン族が参戦したため形勢不利とみたティントは
戦場から逃走するがランボーによって腹を裂かれ茂みに転げ落ちる。
彼はアメリカに帰国し、長期間訪れていなかった実家へと帰っていった。
長い!長すぎる!その経歴長し!ランボーが映画界に現れたことにより
後の80年代アクション映画の原則「マッチョ」「ベトナム帰還兵」
「元特殊部隊」を作り上げた。
ついでにいうとランボーは小説版ではトラウトマン大佐に射殺されており
個人的にはコッチのラストの方が好きである。
1969年に南ベトナムに再配属されたが、1971年中国とベトナムの国境で
北ベトナムの捕虜となった。その際他のアメリカ軍捕虜たちと共に
過酷な拷問を繰り返し受け、これが後に彼のトラウマとなる。
1972年5月に何とか脱出し、1974年9月17日アメリカ陸軍を
名誉除隊(最終階級は中尉)。帰国した際、多くのアメリカ国民が
帰還兵を憎んでいることを知り、反戦的なヒッピーたちが
帰還兵にゴミを投げつけ、「赤ん坊殺しめ!」と罵っている様子を見て、
屈辱と困惑を覚えた。ベトナムでの体験と帰国後の体験は、
極度の心的外傷後ストレス障害を引き起こし、彼の心を蝕んだ。
それが、彼に社会への激しい憎しみを生じさせた。
その後民間人としての生活になじめず、アメリカ各地を放浪。
1982年12月、グリーン・ベレー時代の戦友デルモア・バリーに会うために
オレゴン州ホープを訪れた。ホープで食事と臨時の仕事を見つけようとしたが
小汚い浮浪者を快く思わない保安官ウィル・ティーズルに
街から出るよう促された。保安官の横暴に反発し、街を出なかったために
彼は逮捕され、”浮浪罪”で起訴される。この時取調べの最中に
ひどい嫌がらせを受け、これが北ベトナムでの拷問をフラッシュバックさせ、
彼の精神を戦時の状態へ退行させた。保安官たちを蹴散らし、山へと篭る。
州兵たちが山を囲む中、彼の元指揮官だったトラウトマン大佐も到着。
トラウトマン大佐の説得は通じず、大佐は山中で彼を捕らえることが
困難であるとし、一旦ランボーを逃がすことを提案。
しかし、ティーズルたちはトラウトマンの提案を拒絶し
結果としてホープ市街はランボーによって大混乱に陥った。
ランボーはティーズルを殺すことも可能だったが、止めを刺すまえに
トラウトマンの最後の説得に従い、投降した。
この後ランボーは軍法会議で有罪となり、軍刑務所下での
肉体労働を強いられることになる。その後、服役中の彼の前に
またトラウトマンが現れ、特殊任務につくことを条件に特赦として釈放された。
その特殊任務とは、かつてランボーが脱走したベトナムの捕虜収容所付近に潜入し、
今なお囚われている戦争捕虜の姿を証拠写真として撮影して帰ることであった。
戦闘は一切不用、情報収集だけで、後続部隊が救出するというものだった。
目的地に向ったランボーはパラシュート降下中にアクシデントに見舞われ、
ナイフと弓矢以外の武器は全て失った。
やがてランボーは現地の連絡員コー・バオと出会い
捕虜収容所潜入を果たした。そこで米兵の拷問を目撃し、指令に背いて
米兵を救出して国境近くまで逃げのびたが、
頭上までやってきた米軍のヘリはマードック司令官の命令で
2人を見殺しにして去ってしまう。
実はこの指令は“戦闘中に行方不明となった兵士”を上べだけ調査して
世論を鎮めようとする計画であり、実際に捕虜が現われては困るのだ。
彼とトラウトマンもただこの計画に利用されたにすぎなかったのだ。
敵陣の中に置き去りにされ、東側のゲリラ部隊のポドフスキーに捕えられる。
超人的な忍耐力で拷問に耐え、潜入したコーの助けで逃亡する。
しかし逃走中にコーは銃弾に倒れる。ランボーが初めて心を開き、
アメリカヘ連れていくと約束した美しい少女の死にランボーは怒った。
矢尻に火薬を込めた弓とナイフを武器にゲリラ部隊を一掃。
前線基地に辿りつき、マードック司令官をたたきのめす。
その後、彼はこれまでの戦いで心の傷を癒すべく
タイのバンコクの仏教寺院に住んでいた。そこへまたもトラウトマン大佐が
アメリカ国務省から派遣されてきたグリッグスと共に現れ
アフガン潜入の仕事を持ち出してきたが拒否した。
しかし、トラウトマンがソ連軍に捕らえられたと知るや否や
すぐさまアフガンに向かう。パキスタンのペシャワールで
案内役のゲリラ兵士ムサとおち合い、ゲリラ部隊と協力して
ソ連軍の要塞に潜入する。激しい戦闘の末、トラウトマンを救出するが
ソ連軍のザイセン大佐は最強の師団を投入して
ランボー達の追撃を開始。あわや絶体絶命かと思われた時、
ムサらゲリラ兵士たちが騎馬隊を組織してソ連軍師団の後方から
大挙して現われ、その混乱につけこまれてソ連軍は壊滅した。
ザイセンも彼の乗る戦車と一騎うちとなり、ヘリコプターもろとも
爆発し、ゲリラ兵士たちの勝利となった。
その後の彼は、タイの北部のジャングルで、ボートによる運搬や
毒ヘビ狩りを生業としながら、ひっそりと暮らしていた。
人権侵害が続く隣国のミャンマーでは軍事政権が
少数民族カレン族を虐待し、土地や天然資源を奪取していた。
ある日、ランボーの前にキリスト教系のNGOがやって来て、
ミャンマーへの案内を依頼する。最初は断ったが、
NGOの一人サラ・ミラーの熱心な頼みに心動かされ
彼らをミャンマーに送ることにした。
その数日後、NGOがティント率いるミャンマー軍に捕らえられた事を聞く。
NGO救出のために傭兵部隊が組織され、彼らをミャンマーに案内する。
ガイド役を希望する彼に対し傭兵たちは船の見張りを命ずる。
現地のガイドにカレン族の村へ案内された傭兵たちは
そこで惨殺されたカレン族を目の当りにし、しり込みする。
そしてミャンマー兵による残虐な殺人博打を目撃し
帰途につくことを計画する。そのとき突然彼が現れ敵の兵士たちを射殺、
捕虜たちを救出する。そして逃げ帰ろうとしていた
傭兵のリーダー・ルイスに対し「ムダに生きるか、何かのために死ぬか
お前が決めろ」と諭す。彼は傭兵たちとともに、ミャンマー軍の駐屯地に
ミャンマー軍の兵士を装って潜入する。夜の闇に紛れての救出が始まり、
サラを連れて逃げ、地雷や不発弾を使って追跡者をかく乱する。
しかしNGOを救出した傭兵らは敵に捕まってしまう。
彼らが惨殺されようとしたその時、彼また現れ反撃を開始した。
その後カレン族が参戦したため形勢不利とみたティントは
戦場から逃走するがランボーによって腹を裂かれ茂みに転げ落ちる。
彼はアメリカに帰国し、長期間訪れていなかった実家へと帰っていった。
長い!長すぎる!その経歴長し!ランボーが映画界に現れたことにより
後の80年代アクション映画の原則「マッチョ」「ベトナム帰還兵」
「元特殊部隊」を作り上げた。
ついでにいうとランボーは小説版ではトラウトマン大佐に射殺されており
個人的にはコッチのラストの方が好きである。
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