2009年5月22日金曜日

ジャッカル(オリジナル版)

映画「ジャッカルの日」に登場。

本名、国籍不明。イギリス人のように見え、
ブロンドの髪、長身で青い目をもつ、
フランスのシャルル・ド・ゴール大統領暗殺を請け負った暗殺者。
1962年8月26日ペティ・クラマール郊外で、
エリゼ宮殿からパリ近くの空港へ向かうドゴール大統領を乗せた車が、
待ち伏せていた軽機銃で武装した1隊の襲撃をうけたが、奇跡的に大統領は無事だった。
すでに大統領暗殺は6回も計画されており、
首謀者ジャン・マリエ・タリー中佐が銃殺刑に処せられた。
全てが、アルジェリアからのフランス撤退政策をとった
ドゴールに反対する秘密組織OASの仕業だったが、
63年に入ると政府側のしめつけが激しくなり、OASは動きが取れなくなった。
国外に難をさけたOASの指導者ロダン大佐は最後の残された手段として、
外国人でしかも当局には顔も名前も知られていない殺し屋を雇う事にした。
3カ月後、その条件にぴったりの男を見つけだした。
その男は名を名乗らず、暗号名をジャッカルとし、ジャッカルと呼ばれることに。
契約金は50万ドル。その金を用意するためにOASはフランス各地で銀行強盗を決行した。
しかしその突然のテロ行為はフランス当局を警戒させるもととなった。
やがてロダン大佐の護衛の1人ウォレンスキーがフランス側につかまり、拷問にかけられた。
彼はしゃべらずに死んだがその断片的な言葉からフランス警察が動きだした。
その頃、ジャッカルの準備も着々進み、身分証明書を偽造し、
精巧な狙撃銃を作らせフランス国内に潜入した。
ウォレンスキーの断片的な自白は、大統領を守る立場にある大臣を緊張させ、
早速政府首脳陣の主だった連中が召集された。
会議の結果、警察のルベル警視と補佐のキャロンに全権が委任され、捜査が開始された。
彼らの必死の活動が続き、ジャッカルに今1歩と迫ったが、
殺し屋の動物的なカンのために逮捕には至らなかった。
ジャッカルがドゴールの横顔に銃の照準を会わせる前に
2人の犠牲者が現われた。ジャッカルとホテルで知り合い
1晩ベッドを共にしたモンペリエ男爵夫人と、
ジャッカルに肉体的魅力を感じて近づいたホモのベルナールだ。
その間にもルベルとキャロンの捜査網は次第にせばまったが
どうしても彼を捕らえることはできなかった。
1963年8月25日、解放記念日。厳重な警備を巧みに切り抜けたジャッカルは
やがてドゴールが立つはずの広場を見下ろすアパートの最上回の1室で、
狙撃銃を組立て、その準備を完了させようとしていた。
一方、この日まで、とうとう1人の殺し屋ジャッカルを
捕らえる事のできなかったルベルは、周囲を警備する係員から、
年老いた1人の傷痍軍人がアパートに入った事を聞きだした。
やがてドゴールが到着し、式典は予定通り始まった。
窓からドゴールの横顔を狙うジャッカル。発砲。
だが、フランス人であるドゴールは叙勲者に勲章を授与した後に、
その叙勲者の頬に祝福のキスを与えたため、わずかに頭部が沈んだのだ。
正確無比な腕が災いし、弾丸はドゴールの頭部の数センチ上を通過した。
2発目を込めようとした時、警備員を伴ったルベルが部屋に飛び込んできた。
ジャッカルがふり返り軽機銃を持った警備員を射殺した。
ジャッカルが次の弾丸を込める間、とっさに軽機銃をもったルベルが、
ジャッカルめがけて引き金を引いた。ジャッカルは壁にたたきつけられ息絶えた。
外の広場では何事もなかったかのように式典が続けられていた。
後日、イギリスの警察がジャッカルと思われていた、
チャールズ・H・カルスロップ宅にて家宅捜査を行った。
そこにチャールズ・H・カルスロップ本人が現れた。
彼はジャッカルとは無縁の平凡な人間であった。
永遠に解かれない謎だけが残り、ジャッカルの日は終わりを告げた…

硬派な暗殺映画「ジャッカルの日」。
暗殺者ジャッカルの綿密な暗殺計画の思わぬ落とし穴は
語るに及ばず、対するルベル警視のジャッカル追跡劇には
胃がキリキリ痛むほどの緊迫感がある。
そしてジャッカル自身。本名、年齢、国籍、全てが不明。
凄腕の暗殺者であること、今回の仕事だけに作った
特注の狙撃銃のシブさには痺れたねぇ。

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